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今回は腕時計の精度をキープする要、脱進機について、メカニズムと各ブランドがしのぎを削る最先端技術の仕組みについて解説します。
機械式時計のムーブメントとその仕組みは、宇宙に例えられることがあります。
ときに数百に及ぶパーツを絶妙なバランスで組み合わせた精密機器が、「時間」という目に見えない概念を数値化してくれるのです。
電池もなく動き続ける自動式の機械式時計に及んでは、腕時計のケースに魔法でも詰まっているように感じることもあります。
しかし、機械式時計に詰まっているのは、人類が研鑽してきた最先端の叡智。
特に時間の精度をキープする脱進機は、各ブランドが研究を進め、日進月歩の進化を見せています。
目次
時計の脱進機とは?
腕時計の技術はスイス、日本をはじめ世界各国で研究が進められています。
そもそも機械式腕時計のメカニズムの基礎になっているのは、振り子時計。
ガリレオ・ガリレイが16世紀に発見した「振り子の等時性」が、時計に活用されたのです。
大航海時代に入ると人類は、海上での正確な位置を計測するために、正確な時間を知る必要に迫られます。
揺れて振り子が使えない船の中でも正確な時間を知るために、さまざまな技術が開発されました。
その要のひとつである脱進機は、どのような仕組みのものなのでしょうか。
①概要
脱進機は、機械式時計のムーブメントの一部で、エスケープメントとも呼ばれます。
役割としては、時間の調整を担っています。
脱進機についてもう少し細かく説明すると、主ゼンマイのほどけていくエネルギーを歯車へ伝える際、主ゼンマイのほどけるスピードを調整するためのアクセルとブレーキになる部品です。
現在、多くの機械式時計に使用されている一般的な脱進機は、スイスレバー式と呼ばれるものなので、まずはスイスレバー式について解説しましょう。
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スイスレバー式脱進機は、基本的にはガンギ車とアンクルというパーツで構成されています。
ガンギ車は独特の形をしたリング状のパーツで、輪の外側に歯車よりも鋭く角度の付いたカギが飛び出しています。
アンクルは船の錨(アンカー)のような二股のパーツで、主にルビーなど高い硬度を持つ爪が二股のそれぞれの先端に取り付けられています。
ところで、脱進機は調速機とセットで働きます。
調速機の中心は、テンプとヒゲゼンマイです。
テンプというリング(天輪)にアームと中心軸(天真)のついたパーツに、ヒゲゼンマイという細く短いゼンマイが巻き付けられています。
テンプはオープンハートやスケルトン仕様の腕時計の中で、せわしなく回り続ける部品です。それならば見たことがある、という方は多いのではないでしょうか。
テンプのくるくる回る往復運動は、見ていて飽きないものですよね。
じつは、この部分が機械式時計の心臓部分なのです。
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脱進機と調速機はセットで働くため、ふたつを合わせて全体を脱進機と呼ぶこともあります。
機械式時計のムーブメントや脱進機の基礎となるシステムは、1675年に天才学者クリスチャン・ホイヘンスによって発明されたものです。
それからは300年以上の長きにわたり、基本的なメカニズムはそのままに、精度や耐久性、信頼性・オイルの不要性などが近現代の技術で飛躍的に進化してきました。
しかしオメガのコーアクシャルムーブメントを皮切りに、各社はこれまでの脱進機という概念に収まらない、新たなエスケープメント開発を成功させています。
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それでは、脱進機がどのように働くのか、仕組みをご説明しましょう。
リューズやローターによって巻き上げられた主ゼンマイがほどけると、そのエネルギーは分針や秒針と連動した歯車の列(輪列)に伝わります。
歯車が次々と回ることで取り付けられた針も回るのですが、放置しておくと主ゼンマイは瞬く間にほどけてしまいます。
ちなみに、主ゼンマイの作り出すエネルギーは、よくチョロQに例えられます。
チョロQを思い切り引っ張って手を離すと、最初は勢いよく走りますがだんだん減速し、そのうち止まってしまいますね。
腕時計も同様です。主ゼンマイしかなければ、全ての針がくるくると適当に回り、すぐに止まってしまうでしょう。
そのため、主ゼンマイのほどけるスピードを調整し、分針や秒針が正しい速さで動くように制御する必要があります。
脱進機は、主ゼンマイのほどけるスピードの制御装置であり、時計の精度調整を担当しているのです。
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いよいよ、脱進機がどうやって精度調整に関わるのかをご説明します。
まず主ゼンマイのエネルギーが伝わる輪列と接する場所に設置された、ガンギ車が回ろうとします。
ガンギ車も歯車の一種なので、主ゼンマイ・輪列からのエネルギーがダイレクトに伝わるのです。
しかしガンギ車の外側にはカギがたくさんついており、カギに爪が引っかかるようにアンクルが設置されています。
アンクルというブレーキの存在によって、ガンギ車は自由に回ることができません。
まとめると、主ゼンマイのエネルギーを輪列から受けたガンギ車は、回ろうとしたところで、アンクルの爪に引っ掛かって一瞬止まるのです。
しかし、さらに負荷がかかると爪の引っ掛かりが外れ、ガンギ車はカギ1つ分だけ回り、またアンクルによって一瞬止められます。
この動きはアンクルの爪からアンクルのアームを伝って、ヒゲゼンマイの巻かれたテンプに伝わります。
テンプには振り石という振り子の働きをするおもりがついており、アンクルはアームを振り石にぶつけることで、ガンギ車を回した衝撃を振り石に伝えます。
振り石に衝撃が伝わると、テンプのヒゲゼンマイは回転を始めるのです。
振り石が動くことでテンプとアンクルが動きだすため、非常に重要なパーツでもあります。
https://www.rolex.com/ja/watches/rolex-watchmaking/new-calibre-3255.html
ヒゲゼンマイには伸縮性があり、一周以上せずに止まるようストッパーの役割をする緩急針がついていて、適度な場所(約300度)で止まり逆方向へと戻るようになっています。
ヒゲゼンマイが戻る際、再びテンプの振り石とアンクルのアームがぶつかり、アンクルがガンギ車に引っ掛かります。
上記を繰り返すことで、ヒゲゼンマイはテンプとともに左右へせわしなく回転し、ガンギ車を規則的に、ひとカギずつ回すことになるのです。
テンプの往復回転は振り子と同じように、等時性を持っています。
ヒゲゼンマイが巻かれたテンプはガンギ車の動きに合わせて、右に回転したり左に回転したりを高速で繰り返します。
テンプとアンクルが連動して同じ間隔で動くことで、ガンギ車の回転速度が調整されます。
ガンギ車は歯車と連動しているため、歯車の輪列と連動する主ゼンマイのほどける速度も調整されるのです。
脱進機と調速機はすべてが連動してなめらかに動くことで、互いのスイッチとなり、正確に働き続けることができるようになります。
小さなパーツひとつに欠陥があったり、不具合が生じたりしただけで、腕時計の時間が狂ってしまう、重要かつ繊細なシステムです。
ちなみに、ガンギ車がアンクルに引っ掛かりながら回る時の音が、機械式時計ならではの「チッチッチッチ」という作動音になります。
以上はごく一般的で基本的な機械式時計の心臓部分、スイスレバー式脱進機の動きと役割です。
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ほかにも腕時計用として、デテント脱進機と呼ばれる脱進機が存在しています。
デテント脱進機はスイスレバー式よりも古く、歴史ある脱進機で、ガンギ車が直接テンプを叩きます。
叩く角度は垂直に近く、脱進機とテンプのかみ合う拘束角も小さく、テンプが自由に振動できるようになっている点が特徴です。
そのため、デテント脱進機は主ゼンマイのエネルギーを効率的に活用できます。
アンクルという部品がひとつ多くあり、ガンギ車がアンクルをこじ開けなければならないスイスレバー式脱進機は、主ゼンマイのエネルギーを30%程度しか活用できません。
その点、デテント脱進機はアンクルを必要とせず、力のロスが少ないため効率よくエネルギーを伝えられるのです。
もうひとつ、精度が高い点もデテント脱進機の特徴で、油切れも起こしにくく注油の必要もほぼありません。
しかし、デテント脱進機が一般的に使用されなかったのは、衝撃に弱かったから。
また姿勢差も出やすいので、身につけて歩く腕時計に搭載するには不都合な点が多かったのです。
ちなみに、脱進機が時計の音のポイントなので、搭載する脱進機によって音も変化します。
腕時計から発せられる「心臓音」に魅せられるファンも少なくありません。
これだけの装置を、たった4cm程度のケースの中に閉じ込めた先人たちの知恵には、頭が下がります。
しかし、以上でご紹介した脱進機は基礎の基礎。
とてもよくできているように感じても、これだけではクロノメーター認定を受けられるような精度や数日に及ぶパワーリザーブには及びません。
そこで、各ブランドは競って新たな脱進機を開発し、驚異的な精度を出すべくチャレンジし続けているのです。
②最先端脱進機事情
スイスレバー式の脱進機は、これまでの各ブランドの努力によって完成に近いところまで進化している、とされています。
とはいえ、スイスレバー式の脱進機には、以下のような欠点があります。
・研究しつくされ、これ以上の高精度を出すことがかなり難しい
・油切れを起こさないように、工夫やメンテナンスが必要
以上に挙げた欠点を補うべく、更なる研究が進められました。
そして脱進機の革新時代の幕は、1999年に開かれました。
高級腕時計ブランドの雄、オメガが「コーアクシャル脱進機」を発表したのです。
コーアクシャル脱進機は、スイスレバー式とは全く異なる機構・仕組みをもつ画期的なメカニズムです。
その原型は、腕時計には不向きとされた「デテント脱進機」でした。
いくつもの山谷を越え、工作機器の開発にも取り組んだ結果、コーアクシャル脱進機は生み出されたのです。
オメガのコーアクシャル脱進機に続き、ユリスナルダンの「フリーク」やオーデマピゲの「オーデマピゲ エスケープメント」などが発表されます。
さらに、まったく新しい発想から作り出されたムーブメントも誕生しています。
ヒゲゼンマイを持たないタグホイヤーの「ペンデュラム」や、機械式でありながらクォーツで精度を出すグランドセイコーのスプリングドライブなどです。
そして、もうこれ以上進化しないのではと言われてきたスイスレバー式脱進機にも、革新をもたらすブランドが登場しています。
各ブランドのすごい脱進機5選
各ブランドが技術と知識を結集して開発した、「これはすごい!」という脱進機を5種類選んでみました。
どのようにすごいのか、それぞれの機能や仕組みをご紹介します!
①オメガ コーアクシャル
出典:https://www.omegawatches.jp/
オメガのモデル名にも記載されているコーアクシャル(Co-Axial)。
コーアクシャルとは、コーアクシャル脱進機を使用しているムーブメント搭載の証です。
コーアクシャル脱進機が華々しくデビューを飾ったのは1999年ですが、発明はぐっとさかのぼり、1974年になります。
コーアクシャル脱進機はその精密さや構造上、量産や小型化が難しく、専用のムーブメントにおさめる必要がありました。
そのため、脱進機の発明から専用ムーブメントの開発、量産・小型化を成功させるまでに25年もの歳月を要したのです。
コーアクシャル脱進機は、手裏剣のような形のガンギ車を3つ重ね、3股のアンクルを使用しています。
大きな特徴は、一般的にはリングの外に爪があるガンギ車の形が輪形ではなくなったこと。
そして、大きさの異なるガンギ車を3つも使用し、最大のガンギ車が直接テンプを叩くためエネルギー効率がアップしたことです。
ガンギ車が重なっているため、コーアクシャル(Coは同一の、Axialは軸上のという意味・同軸脱進機)と呼ばれています。
コーアクシャル脱進機のメリットは、まず小さなトルクを有効活用できる効率の良さです。
二つ目のメリットは、高い精度を出しやすく、主ゼンマイがほどけても正確さを維持しやすいという点です。つまり、常に高い精度を保つことが可能なのです。
三つ目のメリットは、壊れにくくメンテナンスの間隔が長くても大丈夫という点です。
コーアクシャルはパーツの摩擦をできる限り軽減することで劣化を防ぎ、注油の必要をほぼ無くすことに成功しました。
一般的なスイスレバー式脱進機は注油の必要があるため、3~5年に一度はオーバーホールする必要があります。
一方で、コーアクシャルは、8~10年。こんなにも長いスパンでOKなのです。メンテナンス費用というランニングコストを抑えることができます。
ところで、コーアクシャル脱進機にはアンクルがありますが、「デテント脱進機」の進化形である「ロビン式脱進機」のさらなる進化形と位置付けられています。
デテント脱進機は精度が高かったのですが、衝撃に弱いため実用には向きませんでした。
しかしコーアクシャルは壊れにくく、スイスレバー式脱進機を搭載した時計に勝るとも劣らない信頼性も持ち合わせています。
そして、2014年には脱進機とヒゲゼンマイを非磁性体にした、マスターコーアクシャルを発表しました。
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マスターコーアクシャルを搭載したムーブメントCal.8400は、15,000ガウスの耐磁性を誇ります。
スイス公式クロノメーター認定を受け、なんと30,000ガウスの磁場という医療機器MRIにかけても精度が落ちなかったという記録があります。
2014年当初はあまりにも高い耐磁性を証明することができず、2015年にスイス連邦計量・認定局(METAS)と検定機器を共同開発・テストが制定されたほどです。
コーアクシャルムーブメントは、高い精度と壊れにくさ、驚きの耐磁性を持つオリジナル脱進機のファーストモデルとして、進化しながら今も高級実用時計業界に君臨し続けています。
②ユリスナルダン フリーク
ユリスナルダンのフリークは、脱進機、ムーブメントとしてはもちろん、形状・仕組みともに腕時計の常識をひっくり返しました。
2001年に登場したフリークは、ムーブメントの一部、まさに脱進機部分が分針となっています。
文字盤の外周内部には歯が彫られ、脱進機の先端に取り付けられた歯車とかみ合うようになっています。
脱進機自体が1時間に1回転し、分を刻むのです。
フリークの誕生は、現代の天才ムーブメント設計者キャロル・フォレスティエ=カザピ氏が作り出した「センターカルーセル」と、ルードヴィヒ・エクスリン博士のアイデアが成したものです。
カザピ氏のセンターカルーセルは、回転するムーブメントが分針となる時計の原形です。カルーセルとは「回転台」という意味です。
エクスリン博士は新しい脱進機「デュアルダイレクト脱進機」を組み合わせ、実用できる時計に仕上げました。
エクスリン博士の脱進機は、ブレゲが作ったナチュラル脱進機の発展形とも、デテント脱進機の2枚重ねとも表現されます。
フリークは、ガンギ車が「ブロッカー」と呼ばれる超小型アンクルを通じて、テンプを叩きます。
エネルギー効率の高さはもちろん、完全にシンメトリーというこれまでには無かった形状が、特殊な時計フリークを生み出したのです。
しかし初期のフリークに搭載されたデュアルダイレクト脱進機はとても重く、テンプの振動についてくことができませんでした。
フリークの誕生には、もうひとつの立役者が存在します。
ピエール・ギガックス氏率いるフリークの製品化担当チームは、デュアルダイレクト脱進機軽量化を追求、ついにシリシウム(シリコン)素材にたどり着きます。
フリークは、腕時計業界にシリコン素材を導入した先駆者でもあるのです。
フリークとは「異形」と「熱狂的なマニア」という、ふたつの意味を持つ名前です。
腕時計の概念を吹き飛ばす、世にも不思議な形のフリークは、熱狂的な複雑機構マニアである人々によって開発され、世界中のファンに愛されています。
近年では時針、分針だけでなく秒針をもち、スタイリッシュなデザインのモデルも登場し、ますます目が離せない脱進機&ムーブメントのひとつです。
③グランドセイコー デュアルインパルス脱進機
出典:https://www.grand-seiko.com/jp-ja/about/movement/mechanical/9sa5
グランドセイコーのデュアルインパルス脱進機は、話題のムーブメントCal.9SA5に採用されています。
グランドセイコー現時点の最高峰との呼び名も高いCal.9SA5は、グランドセイコー60周年記念限定モデルSLGH003やSLGH005「白樺」・SLGH007「大樹」などに搭載されています。
Cal.9SA5搭載のデュアルインパルス脱進機は、ハイビート36000&パワーリザーブ80時間を実現するため、ゼロから脱進機の理論を組み直したという、驚異のメカニズムです。
デュアルインパルス脱進機は、簡単に言えばデテント脱進機とスイスレバー式脱進機のメリットだけを抽出して、合体させた脱進機です。
デテント脱進機とスイスレバー式脱進機の良い点を組み合わせるにあたり、まずはデテント脱進機の欠点である、自己起動できないという部分を徹底して改善します。
デテント脱進機のシステムでも自己起動しやすいよう、スイスレバー式脱進機ではあり得ない「片振り」(ビートエラー)をあえて持たせたのです。
そのため、秒針の動きが一定ではないという特性と、デテント脱進機の持つ非常に高い精度をあわせ持つことに成功しました。
さらにスイスレバー式脱進機のネックとなる「重さ」を改善させるため、ガンギ車を手裏剣型にしたほか、さらなる改良も加えます。
半導体の製造技術MEMSを応用し、ニッケル素材を使用してガンギ車とアンクルを中空構造にすることで、強度はそのままで大きな軽量化に成功したのです。
デテント脱進機とスイスレバー式脱進機の良い点をあわせ持つため、片方向はダイレクトにガンギ車を叩き、片方向がアンクルでガンギ車を叩くデュアル方式となりました。
デテント脱進機の高精度と高効率をもち、スイスレバー式脱進機の信頼性も持ち合わせたデュアルインパルス脱進機は、まさにダブルで衝撃的な脱進機と言えるでしょう。
④オーデマピゲ AP脱進機
出典:https://www.audemarspiguet.com/com/ja/watch-collection/jules-audemars/26153PT.OO.D028CR.01.html
オーデマピゲも、独自の仕組みを持つ脱進機を開発しています。
2006年に誕生したオーデマピゲ エスケープメントです。
オーデマピゲ エスケープメント(AP脱進機・オーデマピゲ脱進機)は、デテント脱進機を基礎に、アンクルを使用したロビン脱進機の進化形とされています。
ロビン脱進機はオメガのコーアクシャルも、そのメカニズムから大きなヒントを得ています。
デテント脱進機にはガンギ車を停止させる中折れ棒があり、この中折れ棒(デテント)をアンクルに置き換えることで信頼性をアップさせたものがロビン脱進機です。
ロビン脱進機には止め石が2つ設置されていて、ガンギ車を交互に1歯ずつ停止させるようになっています。
このためデテント脱進機のデメリットである、止め石が間に合わなかったり、解除されてしまったりする不安定な状態を防げるようになりました。
しかもデテント脱進機の、ガンギ車が直接テンプを叩くという高効率性も維持できます。
しかしロビン脱進機は止め石が2つあることが原因で、ガンギ車がテンプを叩ける機会が2つ進むうちの1回だけになってしまいます。
高効率でも1回は空回りになるため、結局トルクが半減してしまうのです。
そこでオーデマピゲは、空回りする部分のカギとカギの間隔を短く、テンプを叩く部分の間隔を長くすることを考えつきました。
これで空回りによる無駄を大きく減らすことができ、高効率性を保ったまま、信頼性の高さもゲットすることに成功したのです。
オーデマピゲ エスケープメントは、なんと43,200振動、つまり1秒12振動という驚異のハイビートによる高精度、90時間のパワーリザーブを実現することに大きく貢献しています。
さらにオーデマピゲ エスケープメントには、少ない部品・複雑ではない構造というメリットと、アンクルとガンギ車の接触面積・時間ともに最小限で済むというメリットがあります。
そのため摩耗などの劣化を防ぐことが可能になり、油切れの心配がないオイルフリー脱進機となりました。
⑤ゼニス オシレーター
出典:https://www.facebook.com/zenithwatchesjapan/photos/
ゼニス オシレーターの形と仕組みは、これまでご紹介してきたスイスレバー式脱進機とも、デテント脱進機の進化形ともまったく似ていません。
なぜなら、これまで形を変えても存在していたテンプやヒゲゼンマイ、アンクルなどおなじみのパーツが見当たらないのです。
その代わり、ムーブメント全体を覆うほど大きなシリコン製の、0.5mmという薄いプレートが存在します。
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巨大な円形をしたプレートには、ところどころ髪の毛よりも細いワイヤ―が設置され、手斧のような形の切り込みも見られます。
実はこの不思議なプレートは、テンワ・ヒゲゼンマイ・アンクルをはじめ、ヒゲゼンマイを固定したり速さを調整したりするヒゲ持ちや緩急針などを一体化したもの。
たった1枚で、脱進機・調速機の部品ほとんどを兼ねているのです。
唯一、ガンギ車だけは独立して存在しますが、これまでのリングにカギのついたものや、手裏剣型のものとは異なる形をしています。
ガンギ車までが、極細のクギのような形をしたカギと、少し太めで先端に角度がついたカギが交互に並んでいるという、これまでに無かったタンポポの花のような形状です。
ほとんどすべてがこれまで見たことも無い形と大きさをしているこの脱進調速機は、大きなシリコンプレート自体が超高速振動します。
そのため、「振動子」(オシレーター)と呼ばれているのです。
ゼニスのオシレーターにも基礎となった脱進機があります。
それは18世紀の天才時計師、ジョージ・グラハムが発明した振り子時計用のグラハム脱進機と呼ばれるものでした。
グラハム脱進機は摩擦静止脱進機と呼ばれる分類のもので、摩耗による損傷も多くウォッチに搭載されることはなかったものです。
しかしゼニスはグラハム脱進機という古典の中に、新たなる技術を芽吹かせるシステム「摩擦静止脱進機」の可能性を見出しました。
ゼニスは従来のウォッチ用脱進機にある、平立差と呼ばれる姿勢差の原因がテンワとアンクルの軸にあることに着目します。
また脱進機自体による脱進機誤差と呼ばれる時間のズレ、温度変化によって金属製のヒゲゼンマイとテンワが変形するズレを解消するために研究を重ねました。
これら3つの誤差は、ある程度改善されてきたものの、機械式時計の宿命と捉えられてきたものです。
しかしゼニスではテンワとアンクルを同一のシリコンプレートに収めることで、平立差を生み出す軸を省きます。
また脱進機誤差は、シリシウム(シリコン)で全体を形成することで、ガンギ車とアンクルの慣性を抑え、摩擦を最小限にすることで解決。
さらにシリコン素材は温度変化に強く、これまでの常識だったスチール素材よりはるかに変形しにくい素材でもあります。
こうしてオシレーターは、既存の脱進機をもつムーブメントの宿命だった3つの誤差を解消したのです。
さらにゼニスのオシレーターは、再起動機能も搭載し、信頼性もアップさせています。
しかし一体成型によるシリコンの巨大なオシレーターは、大きさと薄さゆえに外的な衝撃に弱いという弱点があります。
その点もフレームをつけることによって、外的ショックによるオシレーター変形を防いでいます。
それだけではありません。ゼニスのオシレーターは、12万9600回/時というとんでもない振動数によって、携帯精度を高めています。
1秒間にするとなんと36回!目にも止まらない超速振動です。
これまでの脱進機とは、音まで違います。
チッチッチッチという従来の音とは異なり、超速振動とタンポポの花のようなガンギ車を持つゼニスのオシレーターは、シャーッという「無数のビーズを勢いよく落とす」ような音がします。
ゼニス オシレーターは、デファイ インベンターやデファイ エルプリメロ 21 カーボンなどに採用されています。
脱進機と調速機を一体化したオシレーターは、一体成形が可能で、これまでの脱進機のような複雑なパーツが不要というメリットもあります。
ちなみに一体型オシレーターは、フレデリックコンスタントも開発に成功しています。
フレデリックコンスタントでは、一般の脱進機とおなじくらいの大きさにまでオシレーターの小型化に成功。
フレデリックコンスタントのスリムライン モノリシック マニュファクチュール 40Hz 2021は、オープンハートになっており、6時位置の窓からオシレーターが見られます。
フレデリックコンスタントのオシレーターは、ゼニスを凌ぐ28万8000回/時という振動数を誇ります。
まとめ
腕時計の心臓部分であり、精度の要である脱進機。
腕時計の大きな個性で、愛好者も少なくない「時計の鼓動」を生み出す部品でもあります。
実際に脱進機と調速機(脱進機)が動くさまは、生き物のように感じられることすらあるほど、神秘性と魅力を秘めています。
300年前に開発されたこのシステムは、この20年ほどで大きな変革期を迎え、常識や概念が何度も覆されてきました。
そしてまだいくつものブランドが、日夜研究を続けています。
これから世に送り出されるであろう叡智の粋、新たなる脱進機は、私たち時計ファンの心を何度でも揺り動かしてくれるでしょう。
当記事の監修者
廣島浩二(ひろしま こうじ)
(一社)日本時計輸入協会認定 CWC ウォッチ コーディネーター
一級時計修理技能士 平成31年取得
高級時計専門店GINZA RASIN 販売部門 ロジスティクス事業部 メンテナンス課 主任
1981年生まれ 岡山県出身 20歳から地方百貨店で時計・宝飾サロンで勤務し高級時計の販売に携わる。 25歳の時時計修理技師を目指し上京。専門学校で基礎技術を学び卒業後修理の道に進む。 2012年9月より更なる技術の向上を求めGINZA RASINに入社する。時計業界歴19年