暗闇や光の射さない洞窟・海底での視認性を確保するため、腕時計のインデックスや針に施される夜光塗料。
街灯や電気が発達した今、機能面というよりも時計の付加価値として、ロレックスやオメガ、パネライなど、様々なブランドに採用されています。
この夜光塗料。様々な変遷を持つことをご存知でしょうか。
とりわけトリチウムからルミノバへの変化の際には、「人の安全」に関わる大きなパラダイムシフトが起こりました。
それは、トリチウムが「放射性物質」であることへの危惧です。
今回は、トリチウムの危険性やトリチウムの扱い、そして現在主流となっているルミノバやクロマライトなどの夜光塗料について調べてみました。
出典:https://www.ballwatch.com/global/en/technology/night-reading-evolution—51.html
目次
1.トリチウム夜光塗料は危険?
1-1.トリチウムとは?
夜光塗料には大きく分けて、「自発光塗料」と「蛍光(蓄光)塗料」があります。
自発光はその名の通り、塗料自ら光を発するもので、蛍光とは太陽光や照明等の明かりを短時間で吸収・蓄積し、暗い中で光を放つことのできるものです。
蛍光は外部からの明かりが必要なことに対し、自発光は周囲が明るくても暗くても常時光を放つもので、そのエネルギー源のうちの一つがトリチウムです。
1960年代以降、ミリタリーウォッチを中心に用いられ、1990年代後期頃まで幅広く使用されました。
1-2.トリチウムの危険性
なぜトリチウムの危険性が取り沙汰されたのでしょうか。
それは、このトリチウムが崩壊する際に、放射線(ベータ線)を放出するためです。
放射線とは?
放射線は非常に強いエネルギーを持っており、一定量を超えた分裂片が皮膚に付着するとヤケドを起こしたり、人体に入り込むと細胞を壊します。
また、放射線を放出した後の放射性物質はなおガンマ線と呼ばれるエネルギーを放出し続け、このガンマ線が細胞と大きく反応し癌細胞を誘発します。
2011年東日本大震災の際の福島第一原子力発電所重大事故。
この痛ましい事故は未だ終わりを迎えず、放射線の危険性については周知の事実です。
そんな放射性物質であるトリチウムは水素の一種で、通常の水素(軽水素)が陽子一つの周りを電子一つが回っているのに対し、トリチウムは陽子一つ+中性子二個の周りを電子一つが回っています。
宇宙線と大気との反応により、地球全体で天然に発生することもありますが、その量はごく僅か。
今地球上で観測できるトリチウムのほとんどが過去の核実験で放出されたものだそうです。
また、通常の水素に比べ中性子二個分が加わるためより重く、蒸発や植物に吸い上げられづらい。
重みがあるため「崩壊」しやすい。
加えて、高純度の液体トリチウムは水素爆弾の原料の一つとしても利用される。
このような核爆弾を思わせる印象から、トリチウムの危険性、とりわけ常に手元に携える腕時計への使用に対し、危惧と不安の声が上がったことは当然と言えるかもしれません。
1-3.トリチウム夜光塗料は恐れるに足りず
では、トリチウム夜光塗料が主流だった過去の時計は危険なのでしょうか。
答えは「いいえ」。
トリチウムが使われた時計は、決して放射能被ばくの恐れがあるような危険物ではありません。
その理由は以下の3つです。
①人体に届かないから
放射線はアルファ線、ベータ線、ガンマ線、中性子線の四つに分類され、ベータ線の飛距離は非常に短く、空気中なら5mm、水中(人体組織)なら0.005mmしか進みません。
時計に使われたトリチウムの発する放射線は、人間の皮膚どころかガラスすら貫通できないと言えます。
②人体に影響を及ぼすような量ではないから
時計に使われる程度の量では、人体に影響はありません。
たとえば、ロレックスのダイアル6時の下の、「T<25」という表記。1998年以前のモデルをお持ちの方なら、見たことがあるかもしれません。
これは、ロレックスのインデックス・針に使われたトリチウムの量を表し、T<25は新品の状態でトリチウムが崩壊した際の放射能が25マイクロキュリー以下、という意味です。
ちなみにキュリーは放射能の古い単位で、現在はベクレルが使われ、25マイクロキュリー=925キロベクレル。
ピンとこないかもしれませんが、電球やレントゲンなどに比べればはるかに少ないエネルギー量です。
つまり、「崩壊」(トリチウムがなんらかの反応によりヘリウム3になること。この際に放射線を放出する)を起こしたとしても、恐れるに足る放射能を有していない、というわけです。
③半減期を既に迎えているから
放射性同位体が、放射性崩壊によってその内の半分を別の核種に変化させるまでにかかる時間を「半減期」と呼びますが、トリチウムのそれは12.32年。
半減期を過ぎるとその半数はヘリウムへと代わっていき、さらに半減期を経るごとにトリチウム量は低減していきます。つまり、発光できるような量のトリチウムは残らなくなります。
例えばロレックス。トリチウムが使用されていたのが1998年のU番までのため、19年経た今は既に光らず、危険性はないと言って差し支えありません。
ちなみに最近ではブラックライトを当てることによって夜光塗料の判別が可能で、トリチウムだと僅かに小さな点として発光します。
なお、蛍光塗料が暗闇に何時間もいると消えてしまうのに対し、トリチウムは外部からの光源を必要とせず、常に視認性を確保することができます。
また、ロレックスは中古品の価値が高いことで有名ですが、トリチウムが使用されたモデルも非常に高い希少性と価値を誇ります。蛍光塗料と異なり経年によって焼けが起こり、ヴィンテージ感を湛えるという特性を有するためです。
以上の三点が、トリチウムは「恐れるに足らず」と結論づけた理由です。
夜光塗料=発がん作用を持つ放射性物質、危険!というイメージはトリチウム以前に一般的に使用されていたラジウムと混同されてしまったのかもしれません。
確かにラジウムの危険性は実際に高く、時計製作者の健康被害が相次ぎ現在は使用を禁止されています。
再びトリチウムを使用するブランドも
現在再びトリチウムを夜光塗料に使用するブランドが登場し、ボールウォッチの夜光マイクロガスライトなどが挙げられます。
これは、トリチウムがガラス管に密閉されており、さらに管の内側を蛍光物質でコーティングしています。
これにトリチウムから発する電子が作用することで光を放つ、ブラウン管テレビと同じ原理です。
出典:https://www.ballwatch.com/global/en/technology/night-reading-evolution—51.html
2.放射性物質を含まない夜光塗料・ルミノバ
安全性が確認されたトリチウムですが、やはり放射性物質となり得ること、また寿命が存在することなどから、現在は蛍光塗料である「N夜光・ルミノーバ」(通称ルミノバ)が主流となっています。
腕時計のダイアルに関しては世界シェアほぼ100%を誇るこの夜光塗料。
実は、根本特殊化学株式会社という日本企業が開発、商標登録している素材なのです。
オメガ シーマスター プラネットオーシャン (ホワイト スーパールミノバ)
出典:https://www.omegawatches.jp/ja/watches/seamaster/planet-ocean-600m/the-collection/product/
同社はラジウムより危険性の低い核種・プロメチウムを精製した夜光塗料を開発・販売していました。
しかし、人々が繁栄だけではなく安全や環境保護を重視するようになった時代に即し、「放射性物質を全く含まない」新素材を開発します。
それが「N夜光・ルミノーバ」(通称ルミノバ)。1993年。
蛍光塗料のため外部からの蓄光が必要となりますが、トリチウムだけでなく、従来の発光塗料をはるかに凌駕するメリットをたくさん持っていました。
- 従来の発光塗料より10倍明るい
- 従来の蛍光塗料より発光時間が10倍長い
- 自発光塗料と異なり半永久的に使用できる、主原料がセラミックスのため経年劣化がほぼない
- 耐熱・耐久性に優れる
などなど、驚くべき優れた性能を持つ新素材でした。
開発された2年後には日本製の時計の全てに、更に2000年には時計産業による世界シェア100%へと飛躍。ルミノバは瞬く間に世界中を席巻しました。
そして現在では腕時計のダイアルだけではなく、非常口マークやルアーやリモコンボタンなど、幅広い分野で活躍しています。
3.ロレックスが開発した夜光塗料・クロマライト
ルミノバのさらに二倍の8時間発光を実現したクロマライトは、ロレックスが独自に開発・特許を取得しているやはり放射性物質を一切含まない夜光塗料です。
ルミノバが緑色の発光であることに対し、青っぽく光ることも特徴的。
出典:https://www.rolex.com/ja/watches/sea-dweller/m116660-0003/magazine/spirit-of-the-rolex-deepsea.html
2008年に登場したディープシーにクロマライトが付され話題となりましたが、実は2007年に誕生したミルガウスやオイスターパーペチュアルのカラーインデックスから採用はスタートしていました。
2017年現在、ほとんどの現行モデルでクロマライトが使用されています。
まとめ
東日本大震災には、放射性物質の危険性だけではなく電力供給が決して当然ではないことを教えられました。
再び「機能」としてフォーカスされる夜光塗料。
便利さからより安全性を、繁栄よりも環境保護を・・・
トリチウムを始めとした夜光塗料の変遷は、そのまま私たちの意識の変化に繋がっているのではないでしょうか。
当記事の監修者
田所 孝允(たどころ たかまさ)
(一社)日本時計輸入協会認定 CWC ウォッチコーディネーター
高級時計専門店GINZA RASIN 販売部門 営業物流部長/p>
1979年生まれ 神奈川県出身
ヒコみづのジュエリーカレッジ ウォッチメーカーコース卒業後、かねてより興味のあったアンティークウォッチの世界へ進む。 接客販売や広報などを経験した後に店長を務める。GINZA RASIN入社後は仕入れ・買取・商品管理などの業務に従事する。 未だにアンティークウォッチの査定が来るとついついときめいてしまうのは、アンティーク好きの性分か。
時計業界歴18年。